スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

99.996%はスルー

  入力される感覚の情報量は毎秒千数百万ビットであり、
意識が処理している情報量は、なんと毎秒たった数十ビットなのである。

  ここで言っている「意識」は「顕在意識」のことですが、それが取り扱う情報量が数十ビット毎秒!入力の百万分の一!。どこまで正しい数字かわかりませんが、こうやって具体的に数字で示されると、さすがにショックです。人間って五感の入力を概ねすべて捉え、理解しているようで全然そんなことはなさそうです。
  だから、ヒューリスティックス、つまり経験則を用いて、正しい保証はないものの正解に近い答えを得る、ということをやるわけです。
  『意識の評価に重要なのは、スポットライトの「当て方」なのだ。そもそも情報量には、「意味」は含まれていない。』と書かれています。「認知バイアス」ですね。仮説に採用する経験に偏りがあったり、認識や興味が違うところにあると、判断がそれにひきずられてしまいます。
  会話においても、話し手が伝えたいある点を強調したとしても、聞き手の頭のなかにある興味が別の部分にあったりすると、肝心な部分はスルーして別の点が頭に残ります。例えば上司に叱られているとき。上司は問題点は共有しているものとして、それがいかに周りの迷惑か、会社に損害を与えたのか、滔々と説教するのでしょう。でも部下が、もし問題点の認識に誤解があるのだろうと思っていれば、上司の誤解の原因を探ることに意識が集中し、どうやって誤解を解こうか、など別のことを考えているに違いありません。いかに上司が立派な説教をしようとも、そのポイントが素直にとらえられる事などまずないでしょう。
  意識レベルで話し手の送る情報をもっと受け取れるなら、上司の話を聞いて、どの点が自分の認識とずれているのかを分析したり、上司がどのような価値観を持っているのか、あるいは自分をどのような人間と観ているのかを推し量ったり、「他山の石」として今後の行動の参考にしたり、などすべて公平に受け取って自分の糧とできるはずです。でも実際には、認識のずれは両者ずれたままで放置され、上司あるいは部下の性格や価値観は互いに誤解されたままになり、上司の説教が部下にとっての教訓に活かされることもありません。
  この本にも、『僕らの無意識は、文字や単語に注目して文を眺めると、意識の中に文の意味を思い浮かべてしまう』と書かれています。つまり、無意識はそれぞれの単語から「想起される意味(スキーマ)」や、「想い描く文脈(コンテキスト)」を勝手に造りだし、その上にたって意識が解釈をすすめます。「わかったつもり」で書いたことと全く同じです。
  意識の上で取り扱える情報がたった数十ビット毎秒だからこのようなやりかたをするのでしょうね。わずかな情報処理量を最大限にいかし、よりよい行動をするために、自分自身の「スヒューリスティックスキーマ」をより広げること、そして、相手の話や世の中の出来事からより正しい情報を受け取るために、注意深く情報を受け取り文脈の理解の幅を意識的に広げておくことがとても大切だと改めて認識しました。

  ここからは与太話ですが、冒頭の文を考えると、顕在意識が取り扱える情報量が人類の数百倍、数万倍もある高等生物がいてもおかしくないなと思いました。ヒューリスティックスの精度は格段に高いでしょう。こんな生物には判断の合理性の面で人類はとても太刀打ちできないように思います。でも、人類の進化の方向性とベクトルは同じなので、コミュニケーションは成立するでしょう。一方で、この生物にとっての「悩み」ってどんなものだろうか、とも思います。日常生活の悩み、思惟上の悩みなど、世の中は矛盾がつきものだと思うので、深い洞察ができる分悩みもより深くなるような気がします。悩みをかかえ続けるような進化の方向は、あるべき方向といえるんだろうか。「顕在意識」の進化は袋小路なんではなかろうか。   私は、「顕在意識」って高等生物の絶対条件ではないかもしれないと思っています。顕在意識は、行動に意味を与え、それに付随して、因果関係を推定して未来の自分の行動を正しい(と考える)方向に持っていく機能を持っています。顕在意識なくして、哲学、数字や科学などの学問が成立すると想像するのは困難です。
  でも、「潜在意識」が行動を起こし、顕在意識が「後で」その行動の理由付けをするなんて話も定説となったようですし、そういう現実を知ってしまうと「合理的判断」なんてのも怪しくなります。人間以外の動物は顕在意識など(たぶん)なくても結構うまくやっています。
  SFでは顕在意識のない醜悪な「ゾンビ」がテーマとしてたまに取り上げられ、顕在意識なしに文明社会は成立しないような気になってますが、宇宙は「顕在意識」以外にも因果関係を正しく把握するための方法を用意しているんではないかと思ったりもします。「顕在意識」なしで行動に意味が与えられ、「顕在意識」なしで学問を発達させている存在。たとえばソラリスの陽のもとに の知性のような存在は、少なくとも私には顕在意識が感じられませんが人間を超える知性を感じます。そんな存在の頭の中はどんなだろうか。人類とは永久に分かり合えない存在のような気がします。

 

にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

未来予測を嗤え 2/2

   「教える」ことの8割は、生徒がなにを知らないかを教わることなんです。

  管理職になり部下を指導する立場になって、強く共感する言葉になりました。「学ぶ必要があるのはこれだ」、あるいは「私はこれを学びたい」という気持ちを促進することが重要なことだと強く思います。
  この本では、文系の人と理系の人の差について議論しています。
----------
理系の人間はとにかく細かい。「こことここに誤字」「この数字の合計が会わない」なんてことをすぐ指摘したりする。こういう人達がマネジメント側に立つと、細かいことにまでいちいち口をさし挟むマイクロマネジメントをおこなってしまいがち、つまり全体としての方向を示すことができない。
----------
  ステレオタイプの見方はいけないと思いながらも、理系の人間と接することの多い私にとっては、とてもよくわかります。

  私はよく、「2次元に住む人間は3次元の存在を検知することすらできない」ということを時々まわりに言います。理系の人は、自分が見えている技術軸など特定の軸(価値判断基準)については、とことんレベルアップを目指し、その軸のものさしで行動のレベルを評価します。つまり、たとえば数学において、「微積分」ができない人よりできる人がレベルが高い、という考え方ですね。しかし、その他の軸については、「興味なし」「どうでもいい」あるいは「見えない」という人が多い。見えないのは論外、見えていても興味なければ「リテラシー」は育成されません。
  一方、「微積分の能力」や「医療の専門能力」という軸もあれば、「交渉の能力」「戦略会計の実務能力」という軸もあり、「人の気持ちを察知する能力」「共感する能力」という軸もある、というように、いろいろな軸が見えていてその重要性がちゃんとわかっている人にとっては、その軸で測ったレベルよりそれぞれの軸に対する認識・感度があるかないか、ということが重要です。ビジネス戦略をまったく考えずに、いかにすぐれた技術であるかを熱く語るだけの技術者では企業内でいい仕事をするのは難しいでしょう。これではビジネスを考えている経営者の心に訴えかけることは困難です(技術者の想いをくみ取り補完して判断できるのが良い経営者なんでしょうけれど)。
  本の主張とはちょっと意味が違いますが、上に書いた、「理系の人と文系の人との差」が生まれる背景はそんなことだと思います。一つの軸におけるものさしで優劣を測る人間と、多くの軸が見えていて、それらの軸に対する認識の有無で優劣を測る人間とは、人あるいはその行動に対する評価がかみ合わないのは当然のことです。
  後者の考え方をする人にとっては、「相手はこの軸の存在が見えていないな」、ということにすぐ気がつきます。ものさしを使ってレベルを見極めるのでなく有無を見るだけですから。そういうのが目につくと、結果として「この人は全体としての方向を示すことができない」という見方になってしまいます。

  「『教える』ことの8割は、『何を知らないかを教えること』」という言葉は、「見えていない軸を見えるようにしてあげること」だと私は捉えました。

  歳をとって色々な「軸」を学んで来ましたが、まだまだ、「もっともっと多次元の住人になりたい」と思う日々です。知らない軸がまだまだたくさんあると思います。上から目線で上のコメントを書いていますが(最近は上から目線かどうか、というのもコミュニケーションのための大切な「軸」ですよね)、他人から見たら私自身も重要な軸が見えていない、と見られているかもしれません。謙虚な気持ちで世の中と接していかないといけないとつくづく思います。



 

にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ
にほんブログ村

自燈明 -お釈迦様の遺言- 2/3

  「正しい」ではなく、いかに相手が入ってこられる玄関を作るか。

著者曰わく、
  「あなたは間違っている。こうすべきだ」と言ってしまう。正義を振りかざす。世の中で正しいのはいつも自分に決まっているわけだが、それでは相手を変えられない。」
・・・

  それぞれの人にはその人なりの行動の「理屈」「合理性」があるということをまずは認めなければなりません。
  それぞれの人の「正しい」「間違っている」判断が食い違うのはなぜでしょう。私は、それぞれの人が持っている言葉や行動の意味の裏にひそむ「スキーマ」&「コンテキスト」の違いのためだと思うのですね。
  「スキーマ」とは、一つ一つの言葉の裏に潜む大量の意味や想い。「宗教」と聞いて思い浮かぶ「勧誘」「オーム」などのネガティブな想いだったり、「祈り」「救い」などのポジティブな想いだったり、あるいは「浄土宗の知人のだれそれ」など属人的な知識だったり、その他もろもろの想いや意味のこと。
  「コンテキスト」とは、「文脈」。つまり今この文章を読んでいるときに、「ん、勧誘・洗脳しようとしているかな」と警戒して過去の宗教の記憶を呼び戻したり、「自己研鑽との関係はなんだろう」と過去の自己研鑽の知識を呼び戻したりすること。つまり、今受け取っている情報の意味を解釈するために呼び戻した、関係する記憶のこと。

  ここで私が言いたいのは、「スキーマ」「コンテキスト」にメスを入れない限りは、人の行動を変えることはできない、ということ。
  「幸せはお金で買うものだ」と思っている人、「念仏なんか役に立たない」と思っている人に説教しても意味がない。
  「念仏あげたら一回一文で買ってあげます」と坊さんから言われた男が、最初はお金ほしさに念仏をあげていたが、そのうち気持ちよくなってお金のことを気にせず念仏をあげるようになった、という事例がこの本にあげられています。
  さすがに現代人はすれているのでこんな単純な筋書き通りにはいかないのでしょうが、注目したいのは、「幸せ」=「お金」というスキーマが、お坊さんが与えた経験によっていつのまにか「幸せ」=「念仏」というスキーマに置き換わったということです。

  ある人が捉えている「スキーマ・コンテキスト」を他の人が正しく理解することは通常不可能なわけですから、「あなたのスキーマは変だ」と指摘することもできないわけです。だからそれぞれの人は自身のスキーマのおかしな部分は自分で気付くしかないということですね。
  なので、冒頭の言葉の「玄関を作る」の意味を、私は「スキーマのとらえ方に疑問をはさむ機会を作る」ととらえました。スキーマが置き換われば必然的にその人の行動は変わってきますね。

  こういう気付きを与えられる人になると、「共感」に基づくすばらしい人間関係が構築できるのでしょう。とても難しいことですが・・

 

にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ
にほんブログ村

いつまでも考える、ひたすら考える 3/4

  日常のコミュニケーションの次元で求められているのは、
脱色されて簡単に共通了解が得られる「客観的」な言葉でしかない。

  主観の奥深さ、重要さ、それに対するコミュニケーションの底の浅さを述べている文章です。
  先ほどニュースで耳にした殺人事件、かわいそうな被害者や関係者、と思うけれども、もし自分の係累が同様の目にあったら心理状態は全く違うだろうな。想像もつきません。
  小さいころから知っているあのアスリート。一時期歴史を共有していたという(一方的な)思いがあるから応援するのだけれど、そうでなければ見方は全く変わるのだろうな。ファンというのはこうして形作られていくんだろうな。
  極端な例ではありますが、被害者と第三者、ファンと一見さん、同じような言葉でコミュニケーションを取っているように見えてその心の中身は全く違うでしょう。
  私の頭の中に、「わかったつもり」の「スキーマ」がまたまた思いおこされます。ある情報を得た時に、その後ろに隠れている感情や個人的な経験が自動的に連想されます。ひとつの「言葉」が引きずっている「想い」は各人各様でそれを共有するのは極めて難しいことです。

  そのことを理解したうえで、せめて、言葉の「客観的」な部分の理解は共有できるようには注意しなければいけませんね。あいまいな定義のまま言葉を使用する、「ことばへの依存症」(思考の生活習慣病克服法)、ただでさえうすっぺらなコミュニケーションをさらに「混沌」の世界へと引きずり込みます。
 

にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ
にほんブログ村

いつまでも考える、ひたすら考える 1/4

  こちらが対話する意欲をなくさせてしまうというのは、絶大なる損失だ。
対話がなければその人は何も知ることができないし、
自分の認識のあり方を変えることなどとうていできない。

  忙しさをいいわけにしばらくサボったら、いつのまにか2か月も経ってしまいました。いったん習慣をストップすると、再開の敷居がどんどん高くなっていきます。ダメですね。

  私も考えることが好きなので、この本、タイトルに惹かれてついつい購入してしまいました。作者はなにを考えているのだろう・・と興味津々でした。
  中身の前半は、まさに心理学の重要命題。質問のしかた、コミュニケーションについて、習うということ、主観について、才能とは・・etc.etc.。結論がないものもあるし、主張があっちへいったりこっちへいったり、なんてこともありましたが、トピックスの多くは私が日ごろ感じている問題意識にヒットしており、楽しく読まさせていただきました。

  この言葉に関連する本文の主旨をぬきだすと、
----
答えようのない質問をしてくる人がいる。
「どんな小説を書いているんですか?」
「あなたにとって小説とは何ですか?」
開口一番それを聞かれても答えようがない。
  質問者は何かを真面目に考えようとしているのか。自分に探究心があるふりを装うため、型にはまった質問をしてくる。
----
  質問する以上、その意図を明確にしろ、ということ、そのためには、質問者もしっかり考えて「対話」の姿勢を見せなさい、ということと理解しました。

  社内でよくあるのが、単なる説得だったり、「聞く耳を持たない」という態度がありありと見えるケース。最近は減ってきたとは言え、私にもよくあることなので注意しなければ。「対話」の姿勢で相手と接しなれば、相手がもたらしてくれるはずの新しい視点に気付かないかもしれません。それも、「絶大なる損失」の一つ。社内教育で、「相手の言葉を聞くこと」をしきりに推奨されますが、自分にとっての「損失」ととらえるともっと謙虚に相手の言葉を聞く気になりそうです。
  吉川英治の「我以外皆吾師也」が思い出されます。

 

にほんブログ村 本ブログ ビジネス書へ
にほんブログ村
プロフィール

Katttt!

Author:Katttt!
ビジネス書の気に入ったフレーズをデスクトップに貼り付けて自己啓発に努めています。その内容をこのブログにてアップします。

カテゴリ
最新記事
リンク
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。